发布时间:2016-10-25 发布者:黄芳 访问次数:
纪念诗人黄瀛诞辰110周年国际研讨会闭幕仪式上的致辞
2016年10月23日,在纪念诗人黄瀛教授诞辰110周年的国际研讨会上,我校日语系主任、黄瀛教授的关门弟子黄芳做了闭幕演讲,黄芳老师回忆了与黄瀛先生相处的点点滴滴,虽然和先生虽然没有血缘关系,但能成为师生,这已是天赐的缘分。
先生虽然离我们而去了,但他对教育事业的热诚,他的音容笑貌将永远留在日语系师生的心里。黄芳老师说为自己是先生的弟子感到自豪。以下为闭幕词全文:
尊敬する星山さま。ご在席の先生方、こんにちは
今日は四川外国語大学日本語学部の学部長としてではなく、黄瀛先生の弟子としてご挨拶させていただきたいと思います。本日はこんなにもたくさんの先生がたが一堂に会し、黄瀛先生110週年生誕の紀念シンポジウムを行い、私は先生の最後の弟子として皆様に感謝の意を表したいと思います。先生は日本語学部で大学院生の指導教官になってから、20数人の弟子を受け入りました。弟子たちは卒業して日本で大学の教授になったり、アメリカで日本文学を教えたり、日本語関係の仕事をしたり、いろいろな所で活躍しています。たとえば、今ご在席の法政大学の教授王敏先生、重慶市外事侨務弁公室副主任の王雯先輩、福岡女子大学の教授武継平先生、四川大学教授の宋再新先生など。うちの日本語学部に残って教鞭をとったのは一番弟子の姚继中教授、晋学新教授、楊偉教授と私四人です。
1989年私は大学院に入って、先生の弟子になりました。その年は先生は83才で、私は孫見たいな弟子として、先生に可愛がられたことを今でもはっきり覚えています。たとえば、初めて先生の授業に出たとき、先生が一番最初にこんな質問を出しました「黄さん、日本語を4年間勉強しましたね。放屁は日本語でなんと言うか知っていますか。なんで先生がこんな変な質問をするのかと思っているかもしれませんが、言葉そのものにはいい、悪い、上品、下品という区別がないんです。どんな言葉でも覚えなければなりません。本を読むときでも同じことが言えます。純文学の本のほかに大衆文学の本も読む価値があります。」先生の教えはずっと心の中に覚え、私の教え子にもそう教え伝えています。
そのとき、先生は俳人であることを聞きましたが、先生の俳句を詠んだことがありません。ある冬、授業に出た私は赤い帽子をかぶっていました。すると、先生は「輝くや 少女の帽子 雪の中」と詠みました。先生の口から飛び出した俳句に、さすが俳人だとわかるようになりました。先生は詩人です。考え方が飛躍的です。お話をするとき、中国語に日本語が混じったり、日本語を話しているときに中国語をまじらせたりしています、それは中国人と日本人の二つのアイデンティティーを持っている証拠だと思います。
先生はもともと教師ではないので、教えることがそんなに得意ではありません、ですから、先生にいろいろ聞くことはなにより大事です。何でも知っている先生は生き字引です。
先生は日本近代文学の立会人です。有島武郎が自殺するとき、先生が文人たちと集まり、有島を待っていました。自殺のニュースが伝わってきたら、「また自殺したのか」とつぶやいたエピソーとを話してくださったことがあります。井伏鱒二がNHKで「黄瀛さんに逢いたいな」と言ったことがあるし、2003年陈舜臣がわざわざ重慶へ先生に会いに来て、帰ったら「新潮」に「黄瀛さんのこと」を発表しました。私の卒業論文のテーマを最初に伊藤整にしようと思いましたが、先生は「私ほど有名ではない」と言いました、その後、芥川龍之介に変えたら、先生はやっと賛成してくださったのです。
先生はいつまでも若い心を持っています。夏になると、Tシャツに半ズボン、革靴で、元気そうな顔をしていました。高齢のため、私のあと、先生は退官になりました。それでも、定年後、よく教室へ授業を聞きに行きました。そのとき、日本語学部の教室は全部7階にありましたが、先生はエレベーターに乗らないで、歩いて教室まで行きました。私の教室に来たら、よく「黄さん、もっと大きい声で話してください」と注意してくださいました。学生たちにいつも「黄じいちゃん」と親しく呼ばれ、尊敬されています。
先生の弟子とした日々を頭に浮かんできて、昨日の出来事の様に思われます。かつて神奈川県へ研修に行ったとき、そちらの日本人の先生に「黄瀛先生と血縁関係がありますか」と聞かれたことがあります。私は先生と血縁関係がありませんが、先生の弟子になったことを私の人生のなかで一番光栄なことです。先生に恵まれて幸せです。
私が愛する先生への思い出話をもちまして、私のご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。
2016年10月23日
纪念诗人黄瀛诞辰110周年国际研讨会闭幕仪式上的致辞(中文版)
尊敬的星山先生,在座的各位老师,大家下午好!
今天我不以四川外国语大学日语系主任的身份,而是以黄瀛先生弟子的身份发表致辞。今天这么多的老师聚集一堂,参加纪念诗人黄瀛诞辰110周年的国际研讨会,我作为先生的关门弟子在此深表感谢。先生在日语系做研究生导师以来,带了20多名弟子。弟子们毕业以后,有的在日本大学做教授、有的在美国教授日本文学,有的从事日语方面的工作,活跃在各条战线上。比如,法政大学的教授王敏老师、重庆市外事侨务办公室副主任王雯师姐、福冈女子大学教授武继平老师、四川大学教授宋再新老师等,留在日语系做教师的是大弟子姚继中教授、大弟子晋学新教授、杨伟教授和我四人。
1989年我考上研究生,成为先生的关门弟子(之后日语系近十年未招研究生)。先生当时已经83岁,算起来我应是他孙子辈的弟子了,自然得到了先生格外的疼爱。第一次听先生的课至今仍然记忆犹新。先生首先问道:“黄同学,你学了四年的日语了,知道日语里‘放屁’怎么说吗?你可能觉得老师怎么问这么奇怪的问题。其实语言本身并没有‘高雅’与‘低俗’之分的,无论什么单词都应该掌握。看书也是如此,除了纯文学的书以外,地摊上的书也有值得一读的地方”先生的这番话对我影响颇深,我现在也在这样教育我的学生。
以前只是听说先生是俳句诗人,但对先生的诗作却知之甚少。记得有一年冬天我戴了一顶红帽子去听课,先生见到后,随手在黑板上写出「輝くや 少女の帽子 雪の中」,这才见识到先生的功底之深,已经达到信手拣来的地步。先生是诗人,思维方式是跳跃式的,说中文的时候经常夹杂着日语,说日语的时候又夹杂着中文,这正是先生具有中国人和日本人双重身份的证据。
先生原本不是教师,肚子里的墨水倒不出来。作他的弟子,一定要善于去“掏”,那可是一本“活字典”。
先生是日本近代文学的一位见证人。有岛武郎自杀的时候,先生和文人们聚集在一起等有岛的到来,结果传来有岛自杀的消息,当时先生说“怎么又自杀了”。井伏鳟二在NHK电视台上曾说“好想见黄瀛啊。”2003年陈舜臣专程前来重庆拜见先生,回国后在《新潮》杂志上发表了“关于黄瀛”的文章。我在选毕业论文题目时,开始时打算写伊藤整,先生知道后反对说:“伊藤当时还没有我有名。”后来定为写芥川龙之介,才令先生满意。
先生有一颗永远年轻的心。夏天他穿上T恤加短裤,下配皮鞋,看上去精神焕发,充满活力。由于年事已高,先生不再担任教学任务,但他仍然经常去教室听课。日语系的教室在七楼,先生总是走上去,不坐电梯。每次走进我的教室都会叮嘱我“你大声点哈”。同学们都亲热地称他为“黄爷爷”。
与先生交往的种种往事浮现在脑海里,恍如昨日。记得第一次去日本神奈川进修时,曾被日本人问过我和先生是否有血缘关系。我和先生虽然没有血缘关系,但能成为师生,这已是我人生中最为光荣的事。我为自己是先生的弟子感到幸福。
谨以这段回忆作为我的闭幕词,谢谢大家!
2016.10.23